さようなら2023年の人類。
年越しソバが食えない。
というか諸事情によりここ数週間、1日3食うどんを食っている。メニューは3種類かけ、月見、かきたま。うどんは死ぬほど好きだがさすがにクダンの限界が近い。こんなにも脳の大半がうどん、もとい小麦に支配されようとも、まだ"米派"の本能が暴れており最近ではもっぱら田植えの夢ばかり見る。
小学生。生活科の課外授業。フツーの学校はたいてい朝顔とかプチトマトとか育てるはず。母校では1人1つバケツが支給され、そこに植えさせられるのは"イネ"。県庁所在地である程度都会とはいえ、そこら中に水田の広がる街。大変馴染みのある植物だが、イネを詳しく知ったのはこの授業。先生が言う。「この1束の苗から収穫できる量は、たったのお茶碗1杯程度です。ごはんを作るのは大変なんです。何ヵ月もかけて感じてみてください。」
小2のおれ。すこし冷めたような、尖ったようなくそガキ。バカバカしくなって1日でお世話を辞めた。様子を見に行くことも無く。食料なんて買った方が早い。たったのお茶碗1杯に大事な下校時間を割くなんてアホらし。つって。みんなは毎日懸命に日記をつけ、こまめにお世話をする。まぁ結局、台風か豪雨かなんかで学校中のバケツ米は夏休み中に全滅した。休みが明け惨状を知らされたクラスの連中は泣いたり落ち込んだり。おれだけ一人なにも感じないまま、むしろ一人だけが輪の中に入れず、冷めた気持ちになって一人帰る。下校中の空や川の色は、いつもより薄く感じ味気なかった。
ただ小学生なりにも、熱中してなかった時間の長さだけ、得られぬ感情に差が出ている事に気づいた。感情を大きくするには、それだけ注力しなければならない。アタマを使い、時間を使い、労力を使い、感情を育てていく。そうやって実った感情の大きさは、収穫するまで分からない。ただ、尽力すればするほど豊作になるよね。いま大人になるにつれて忘れてしまう気持ちだ。
誰だって大人になると、全力で走ることが少なりがちだ。加えて何時からか、心を守るため感情にバッファを設けるようになっていたおれは、いつのまにか"熱中"する事が少なくなっていた。ただボケっとした時間を過ごした事もある。そうしているうちに、瞬間、瞬間、瞬間の差が指数関数的に大きくなり、残りの人生で収穫できる幸せの総量は減っていってしまう事に気づく。最初はボンヤリ。そこから少しづつ"いのちのじかん"について考え、怖くなっていった。
めいっぱい引き延ばしても、これ以上は増えない"いのちのじかん"。限られた時間の中でどれだけの時間、なるべく幸せの苗を大きくしたいと思えるか。思い続けられるか。
ほら。
たったあと数日かぞえるだけで今年が終わる。
たったあと数十年かぞえるだけで命が終わる。
この星46憶年の歴史の中のたった数μの刹那。
じんせい、どう生きようとあなたの勝手。
しあわせ、どう育てようとおれの勝手。
だったら、なるべく大きな幸せを。
なるべくよいおとしを。